自分の心の深い部分に触れながら書くということ

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文章を書きたくなるとき、頭の中にぼんやりとしたやわらかい光のかたまりがあって、その光をなるべく損なわないように、言葉の列に変えていく。これが私の文章作成のイメージでした。

その光のようなものは、言葉になる以前の「もやもや」といわれるもの、あるいはある印象なり事柄なりを表現しようとするけれども、適切な言葉が見つからないとき、生じる呻きとも表現できるかもしれません。

この光に忠実であろうと心がけると、納得のいく文章が書けたのです。

いずれにせよ、この光が生まれてからすぐに言葉に変えていこうと張り切ると、当初感じた光を忠実に再現したようには思えない代物が出来上がります。というか粗いものが仕上がる。

光を言葉に変える作業は祈りや瞑想に近いと言えます。PCの前でキーボードに両手を添えながらする瞑想は似つかわしくありませんが、確かに瞑想状態、PCの画面以外の外界から完全に遮断された感覚があります。内に浮遊する感覚と言いましょうか。そして光を強く意識して感じながらキーボードを打っていきます。光に触れながらと表現した方が適切なようにも感じます。私の中では「触れる」がピンときますね。

この光に触れて、それを言葉に変えることが出来ているときは幸せです。厳密に言うと光に触れてキーボードをたたいているときは集中していて何がなんだかわかりませんが、文章が仕上がった後なんとも言えない充実感に満たされます。

この光はおそらく自分の体と心が何かの事態に遭遇したときにゆらめくことで生じる何かです。何を言っているのかいよいよわからなくなってきた方もいらっしゃるかもしれませんが続けます。

たとえば、何かを見てふと不思議な感じ、違和感を感じる。その違和感は違和感ですぐに言葉にせず、しばらく放っておくと、もやもやとした印象、うっすらとした光のかたまりになる。それに触れながら、言葉に変えていく。こういった手順でしょうか。光のかたまりが形成される時間は、1分の場合もあるし、場合によっては何年ということもあります。

自分の光に触れることができ、そこに適切な言葉を得ることができれば、かけがえのない作文ができるのだろうと思います。

どこかで見たフレーズをそのまま繰り返すのではなく。自分の光に触れて書かれる言葉は、他ならぬその人が生きている証なのだろうと思いますし、豊かなことでもあります。

情報の行き交いが苛烈を極めている昨今こそ、この光に触れる機会を得る努力を惜しむべきではないと強く思うわけです。

 

 

 

言葉に表すこと 生き生きとした回復 欠けを補うという言葉の本質

 

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