考えたこと

他者からの期待を裏切る誠実さと文章を書くこと

心の中に生じた光に触れながら文章を書くという話をしました。

人の心に生じた感じ、私がぼんやりとした光と表現したものですが、この感じというものを止めることはできません。なかったことにはできないのです。生まれてしまったが最後、出来ることと言えば、それを保留するか、表現するか、無視するかのいずれかということになります。もしかすると、それに見合う体の動きが発生するまで残り続けるのかもしれません。

自分の心の変化を見つめることに熱心でなければ、また静かに自分の心に向き合う時間を持てなければ、この感じは日々の喧噪、氾濫する情報、他者からの評価に埋もれてその存在を感じられなくなります。最初はささやかな感じのみが無視されるだけですみますが、次第に大きな感じ、すなわち人生で重要な方針になる本心までも見失うことになります。

そうなると、だんだん苦しくなってきます。苦しくなって悲鳴をあげるのは、存在し続けているのに無視され続けた感じです。この状態だと現実とのいきいきとした接触を失います。何を見ても灰色のような、いつも何かひっかかったような、自分の人生を生きられていないような、曇りガラスを通して世界を傍観しているような、そういう苦しさに苛まれることになります。

ですから、自分だけの時間を持つことを忘れてはなりません。たったひとりだけで、日常生活で自分の心に生じた様々な感じを見つめ、消化し、表現し、納得する時間が必要なのです。他者からの評価はこの際、度外視します。

自らの欲望に従順でない者は、最終的に他人に迷惑をかける可能性が高くなります。生涯を通じて己を押し殺し続けるほど人は強くはないようです。もちろん自分の欲望が他者や社会を傷つけるものであったら、それは押さえつける必要があります。また自分の他の大切な何かを損なう場合もそうです。でも、そうでなければ、極力自分の欲望を実現する方向に行動した方が、確実に豊かです。

そのためには、自分の感じを大切にしなければなりません。他者からの期待を裏切る誠実さというものもあるのです。

紙に向かって何かを書く時間を持つことは、あなたが、いきいきとしたあなたであり続けることを助けてくれるはずです。

自分の心の深い部分に触れながら書くということ

文章を書きたくなるとき、頭の中にぼんやりとしたやわらかい光のかたまりがあって、その光をなるべく損なわないように、言葉の列に変えていく。これが私の文章作成のイメージでした。

その光のようなものは、言葉になる以前の「もやもや」といわれるもの、あるいはある印象なり事柄なりを表現しようとするけれども、適切な言葉が見つからないとき、生じる呻きとも表現できるかもしれません。 続きを読む